学校・家庭・地域それぞれが役割を果たし、緊密な連携を
- 公開日
- 2018/02/15
- 更新日
- 2018/02/15
桑野小の今
わたし
テレビのスイッチを切った時
蛍光灯も消してみた
はじめて訪れたような闇の中に
自然と耳を澄ます自分がいた
すると
それまで気づかなかった音が
聞こえてくる
私に聞こえなかったのか
私が聞こうとしなかったのか
やがて 闇に目がなれてくる
何かを見ようとする自分がいた
電気のついていない闇の中でも
さまざまなものが見えてくる
今まで見えなかったもの
その中で
一番見えてきたのは
自分自身かもしれない
いつの時代でも、子どもは親にとって心配のたねですが、その心配の内容は時代によって変化しています。おおもとのところでは、「わが子が立派に成長してほしい」という思いがあります。その「立派な成長」ということのイメージが時代によって変化し、心配の内容を変えてきています。
わたしが小さいころの時代は、親は日々の生活に忙しくて余裕がなかったので、子ども自身の自己成長を信頼し期待していました。以前も学習が苦手な子もいましたし、不良じみた子もいました。でも、近所の人達はそういう子をずっと見守っていました。「近頃あの子の姿を見ないけど、どうしたのだろう」とか、「あの子がこの間、向こうからあいさつをしてきた」などと、成長ぶりを確かめたりしていました。そのうちに、暴れん坊が会社に通いだしたり、姿を見せなかった女の子が、立派な大人になって盆踊りに現れたりして、近所の人達を驚かせたり安心させたりしていました。そういう雰囲気が地域の大人と子どもをつないでいたような気がします。
今はどうでしょうか。ニュースなどを騒がせるような「まさか」と思うような事件が起きています。
考えられるのは、成長するその時々の過程でしっかりと身につけなければならない「人としてどう生きるべきか」という道徳的な規範意識や集団生活をおくる上でのルールなどが、育てられていないということです。しつけのもっとも基本的なひとつである「あいさつ」すら満足にできない子が増えているといわれています。
大人が子どもに期待するあまり、自分の子どもばかりに没頭して、近所の子への目配りどころではなくなっているのかもしれません。そこでは、子どもの自然な自己成長への信頼や期待が消えているのです。子どもたちが自ら成長しようとする気持ちを、大人は尊重すべきなのに、大人のやり方で成長を押し付けてきているのかもしれません。
昨今の、子どもたちをめぐる問題のほとんどは、子どもたち自身の意志と要求にもとづいて、自分の成長の方向とテンポを決めなければならないという最も大事なことを、大人が奪ってしまったことによって起こっているといわれています。
「学校」「家庭が」「地域が」と、責任を転嫁しあうのではなく、今こそ、それぞれが果たす役割を確認しあい、緊密な連携のもとに教育力を存分に発揮すべきときであると私は思います。